Hは渡りに船とばかりにこの話を受けた。
とはいえメキシコのレースにWを使い、カリフォルニアの競馬界とさらに悶着を起こすのは気が進まなかった。
なんといってもカリフォルニアは、シービスケットの本拠地だったからだ。
Sの賛同を得て、Hはスペック・Lに騎乗を依頼した。
シービスケットが出ると聞くと、誰も自分の馬を競わせたがらなかったのだ。
そこでノーマイルは2着から5着までの賞金を増額し、斤量もシービスケットより十キロから14キロ減らすという破格の条件を出した。
これが功を奏し、2着賞金の獲得を目指して7頭がエンシービスケット陣営は華々しくティファナに到着した。
Hは30人の親しい友人をビュイックのリムジン8台に分乗させ、自分は先頭の車に乗ってやってきた。
シービスケットを乗せたバンが通ると、その両側に吹き寄せる雪のようにファンが群がった。
ドアが横に滑り、馬が姿を現すと、フラッシュが次々に焚かれ、群衆は前に押し寄せた。
付き添われて、シービスケットは踏み板を駆けおり、群衆のなかに立った。
シービスケットは堂々とポーズをとると、そのままの姿勢を保った。
何度もポーズをとらされてきたせいで、周りで報道陣がガヤガヤしている時はどうすればいいかをわきまえているようだった。
そんな馬を記者たちは″映画スター″と呼び習わすようになった。
カメラが向けられると、シービスケットはいつものように従順に顔を上げ、耳を立て、尻尾を振街はしぼみ、疲れ切っていた。
広大な競馬場は、今やガタの来たうつるな場所だった。
周辺に群がるように開業していたバーや店は、大部分が扉を閉ざしていた。
Wが快調なエンジン音を立てるスチュードベイカーやコードで走り抜けた活気あふれる通りは風に打たれて静まり返り、モリーノロホの女性までが姿を消していた。
妙なところから煙を吐いて見せるけばけばしい女たちの殿堂は改装され、こともあろうに小学校の校舎に姿を変えていた。
のちにこの建物は教会となる。
町の数少ない優良ビジネスが″離婚″といううら悲しい商売で、かつてのにぎやかな酒場は、離婚届を手早く処理する寒々しいオフィスに姿を変えていた。
だが1938年のその日の午後だけは、シービスケットが古のティファナとアグアカリエンテ競馬場をよみがえらせた。
″シービスケット・デイ″のずっと前から、アメリカ人が街に到着しはじめ、ホテルはアメリカ全土からやって来たシービスケットのファンで満杯になった。
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